田中だよ

今日もしんでるあいしてる

みなさんこんにちは。はまだです。

2月21日、悪い芝居主催の「今日もしんでるあいしてる」千秋楽公演を観てきました。

今まで特に感想を書くことなく友人に伝えるだけだったんですけど、今回の作品は今まで観た作品の中で最も好きだなあって思いまして、昂る感情を抑えきれず感想を書いている次第でございます。気持ち悪いオタクですよね。この文章はいかにも気持ち悪いオタクが書いています。千秋楽の時いかにも気持ち悪いオタクが紛れ込んでいたと思います、ぼくですね。

自己紹介は置いておいて、以下「今日もしんでるあいしてる」の感想を書かせていただきます。ネタバレありの感想になってしまいます。配信を観ていない方はお気をつけください。


~感想~

本作はコロナ禍と死生観という2つの軸があるのかなと思いました。

コロナ禍という軸がどういう流れで死生観に行き着いたのかというのは制作側に聞いてみないとわからない話ですが、うまく2つの軸を重ねて物語が進んでいたのでちょっと想像できそうでしたね。そんなところも好きでした。

まず、コロナ禍について触れていきます。
特にこちらは詳しく触れる必要がないとも思いますが、作中での流行り病はコロナウイルスと同一のものと考えていいでしょう。山崎さんの無リストバンドの件はちょっとおもしろかったですね。

コロナによってみなさんも自粛生活を送っています。演劇界でも無観客で行ったり有観客で行おうと思ったら中止になったり、中止にならずとも徹底した対策を行っていますね。たぶん。

コロナへの感じ方は様々だと思います。恐ろしい流行り病と考えている方もいますし、お餅の件に共感した方もいるんじゃないかなと思います。別にどれかが正解とかそういうのはないと思います。対策する方もしない方もそれぞれの考え方ですし。そんな中で悪い芝居は本作を劇場で公演しました。

ぼくは演劇人ではないので気持ちがわかるわけではないのであれですが、演劇は不要不急なんでしょうか。実際にしばらく演じていない方もいると思います。そんな期間を経たことで、演劇をやりたいと思った方もいると思います。でもその演劇をやりたいという気持ちは必要なのでしょうか、急ぐものなのでしょうか。

役者のみなさんや制作しているみなさんにとっては要ですし急だと思います。でもそれって現状エゴですよね。主観としての意見ですから。それに対してお国からは不要不急だと言われています。じゃあ不要不急なのかなあ、そう感じちゃいます。

本作でも様々な感情が入り乱れてました。九木大は儚を愛していました。愛しているから記憶の持たない彼女も愛せると豪語し、数十年共に暮らし続けましたね。ところがそれには無理が来る。自分の感情はエゴだから。自分のエゴを押し付けているだけで彼女は不幸なのかもしれない。そんなことを思って苦しんでいました。演劇が不要不急ではないという主張にしてもそうですけど結局、独り善がりだと成り立たないんですよね。人間は相手がいて、需要があって、安心して、他にもいろいろな感情はありますが、そうして成立するわけです。

演劇はお客さん、みなさんがいてこそ成立する。みなさんの観たいがあって、拍手があって、感想があって、ちょっぴり幸せな気持ちがあって、はじめて必要になり、急ぎのものになります。中止にならなくてよかったね。この冒頭の言葉にすべてが詰まっている気がします。

愛で世界は動かせないかもしれないけど、愛で自分は動かせる。自分を動かしたら世界はほんのちょっと変わるかもしれない。そんなことを九木大は言ってましたね。
この演劇で世界は動かせません、消費税は増税されます。演劇をしたい、楽しいものを届けたいそんな気持ちで、みなさんの気持ちは動いたと思います。たぶん明日はちょっとだけいい世界になっていると思います。演劇にはそんな力があります。それだけかもしれないです、どうせ100年後にはこの芝居のことを誰も知りません。それでもぼくらの世界がちょっとだけ変わりました。ぼくらには必要でした。それだけでもいいのかなって思います。そんなに素敵なことが他にあるのかなって。

長くなりましたね。次に死生観について書いていきます。

本作の流行り病にかかった人間は亡くなるとゾンビになってしまい、次第に記憶を失いながらも姿形はそのまま生き長らえるそうです。

本作で流行り病にかかって、これから先どうするか悩むカップルが2組いましたね。2組の行動から一部抜粋して少し書いていきます。

まずラストなんですけど、九木大は彼女と共に生き続ける判断をし、最終的に100歳近くまで生き寿命を迎え、恐らく彼女と共に火葬されましたね。

先ほども触れましたが、30年近くゾンビとなり生前の記憶が抜け落ちた彼女と暮らし続けた九木大は自分の行動が正しいのか、エゴではないのか、彼女のためなのか、悩み彼女に心境をぶつけていましたね。彼女の言葉に救われた九木大は彼女と同じ棺に入って火葬されるために生きていくことを決意し、生き抜きましたね。
先ほどは主体性を持つのも大事だけど相手がいないと成り立たないって書きましたけど、別の解釈も可能です。その前に逆井祈子カップルのことに少し触れます。

祈子の彼氏はゾンビになる前に、彼なりの死生観を以て自殺することを考え、3ヶ月後満開の桜の木の下で死ぬことを決めます。個人的に、究極死ぬために生きていると思っているので彼の自殺したいという気持ちはわからなくもないなって思っちゃいました。まあそこは割愛。

そんな彼は約束通り3ヶ月後に自殺するわけですが、おもしろいことを言っていました。この3ヶ月が1番おもしろかったなんてことを。これって九木大と同じだと思うんですよね。

ちょっと脱線。関係ある話ですけど。
仏教のなんかの冊子で読んだんですけど、13歳になる娘のいるお母さんがガンで余命数年って言われたと。でもそのお母さんは娘が20歳になるまでは死ねないと言って、本当に娘が20歳になるまで生き抜いてそれからすぐ亡くなったそうな。これって不幸な話なんでしょうか。ぼくはお母さんは幸せな気持ちを抱いて亡くなったと思います。自分のやりたいことをやって亡くなったんですから。

人間がどうやって生きていくか自力で考えるのは難しいですよね。なんとなく楽しいことをしてなんとなく恋愛をしてなんとなく結婚する。そんな人も多いと思います。いやこれはこれで正解だと思いますけどね。

亡くなったお母さんはどうやって死ぬかというゴールを決めて、そのゴールまで行き着く方法を考えてその通りに生きました。死に方を考えれば生き方も自ずと決まってくるってわけです。九木大も祈子の彼氏も同じだと思います。

九木大は彼女と共に火葬されるというゴールを設定したからこそ、どうやって彼女と共に生きていくか暮らしていくかプランを立てられて楽しく生きていけた。だからこそ遺影の九木大は割れんばかりの笑顔だったのかなあって。

祈子の彼氏は桜の下で死ぬ、そう決めたからこそ残りの人生はやりたいことをやり、楽しみたいことを楽しみ過ごしました。死んでしまうから向き不向きなんて関係ないですし、ネガティブな要因は取っ払って行動できますからね。

成功パターンを今回の演劇で目撃することができたわけですが、我々は死に方を決められるでしょうか。自分で少し考えてみたんですけどなかなか決められないんですよね。そりゃそうですよね。まだ自分事にできてないですし、想像がつかない。死ぬことを想像しながら生きていくのは困難なことです。だって経験者の意見を聞けないんですから。永遠の課題ですね。

そんな死に方を決められない我々に残されたのは主体性を持って生きて、誰かと手を取り合っていくことなんですよね。これは言ったら依存なのかもしれない。でも依存しないと人間は生きていけないと思います。独りだと弱いから。

そんな我々に悪い芝居は本作「いつもしんでるあいしてる」を用意してくれました。それをお客さんが欲することで観ることで制作側も救われた側面もあると思います。観たいを奪われた。演じたいを奪われた。でも本当は必要だった。独りなんかじゃないんです。

中止にならなくてよかったね。

本作を観たみなさんが主体性を持って何をして生きていくのか考えて、自信を持って勇気を持って生きていけたらいいなって思います。生きるのは辛いけど、本作を観た後ならちょっとだけ強くちょっとだけ優しくなれるでしょう。独りの辛さを知ってるんだから。そしたらみなさんの周りにはいつもよりもちょっとだけポジティブな感情があるのかなって。その波がどんどん広がったら世界はちょっとだけ平和になるかもしれません、愛は世界を平和にするのかもしれません。

 
個人的には内心スタンディングオベーションしてたんですよね。静かに天皇陛下みたいな拍手してましたけど。それだけ素晴らしい作品だったと思います。
自分の死に方はわかりません、これから探していきます。でも、独りの怖さを知ったからみんなに優しくしていきます。みんなのことが好きですから。なんか少し興奮してきましたね。よ~~し、じゃあ明日は色黒で眼鏡かけた褐色ミニオンみたいなおじさんに、褐色ミニオンみたいでかわいいですね!って伝えようと思います。おじさん喜ぶだろうな~。

さようなら。